ベンヤミンのポルボウを歩く 4——レンガ色の壁

ベンヤミン最期の地ポルボウの街を歩く話のその4。

丘から街に戻る。シビックセンターにベンヤミンの展示があるという。寄ってみたが、閉まっていた。シエスタの時間帯であったためらしい。

レンガ色をしたこの建物の入口の脇に、ベンヤミンの有名な写真が掲げてある。Wikipedia日本語版のベンヤミンの項目には、なぜか「自殺現場に掲げられている」としてこの写真らしきものが紹介されているが、なにかの間違いではないだろうか。ベンヤミンが亡くなったのは、少し離れた別の場所であったはずである。

その別の場所というのが、旧ホテル・フランシアだ。ここもレンガ色の外壁をもった、四階だての建物である。

“Casa Vilarrasa” とは、建物自体の名前らしい。

1940年9月、ポルボウへたどり着いたものの入国を拒否されたベンヤミンは、ここに宿をとり、その夜に自死した。ファサードに、そのことを記した銘板が埋めこまれていた。

近くに案内板がたっていた。それによれば、ベンヤミンの滞在した部屋は2階にあって、裏手に面していたらしい。まわってみる。ここは、駅からくだってくる階段の、ちょうどくだりきったあたりである。裏手側は1フロアぶん地面が高いところにある。はっきり知らないが、こちらでいう「2階」は日本式にいう「3階」にあたるのではないかとおもうので、だとするならば、ベンヤミンの部屋は、裏手側から見たとき、地上からひとつ上の階、下の写真でいうと真ん中の階にあったことになる。

この建物は、いまはホテルとしてつかわれてはいないようだった。正面のシャッターは閉じられおり、なにをしているのかはわからない。隣にはよろず屋があったようだが、いまはもう営業していないようだった。壁に子どもの写真がペタペタとたくさん貼られていた。向かいは美容院で、店は閉まっていた。その前でぼくが写真を撮っていたら、オーナー夫婦が帰ってきた。シエスタのあいだ、散歩に出ていたようだった。

ここから駅へとつづく階段の両側には家々がならんでいる。かつては商店街であったようでもあるのだが、いまはすっかり寂れている。鉄道でやってくるのは、大きなバックパックを背負った、わずかばかりの若者だけ。いっぽうフランスから国境を越えてくる自動車道路のほうは、ひっきりなしの往来である。

再びツーリスト・インフォメーションへ行く。おばさんに、シビックセンターが閉まっていたというと、午後5時くらいから開くと教えてくれた。オールドピープルが集まってくるから、声をかければ開けてくれるという。

少し時間があったので、ビーチ近くにあった観光客相手の露天のバルで、セルベッサ・クラーラ Cerveza Clara を飲む。3ユーロ。ビールを炭酸飲料(具体的には不明)で割ったものだそうで、ちょっと甘い。

ちなみに、こちらは後日、近くの別の店で飲んだビール(セルベッサ Cerveza)。2ユーロ。バルセロナのバルのほうがわずかに安かった。

ビーチ脇の駐車場には、数十台の車が停まっていた。バイクの姿も多い。みなカウル付きで、タンクバックは、カバーをかけるタイプだった。するとそこに緑色のW800がやって来た。おお! こんなところでWに会うとは。このWはGiviのスクリーンとサイドバッグサポートをつけ、マフラーを交換していた。

海沿いに歩いてゆく。墓所のある丘の下をゆく道である。さっき見たダニ・カラヴァン作品が、真上に見えた。墓所の外壁も、下から見上げることができた。墓所が、村はずれの海の見える丘の上に立地しているのは、昨秋歩いてきた瀬戸内の祝島でも同じだった。

その先には、近年建設されたヨットハーバーがある。レジャーボートが出港してゆく。ビニールの船に子どもが乗っている。するとボートが速度をあげ、ビニールの船を引っ張って走り出した。子どもがキャーと歓声をあげて何事かを叫んだ。それがなぜか日本語のように聞こえた。というか、何語という区別よりも下の次元で入ってきたというべきか。

シビックセンターへ戻る。おじいさんが出てきたので声をかけると、「ベンジャミン?」と返された。こっちへ来いというので、右手の部屋に入ると、20-30人のおじいさんたちが集まって、カードゲームをしたりしていた。さらに奥へ行くと、照明を落とした部屋で数名のおじいさんたちがツール・ド・フランスの中継を見ていた。その一人に取り次いでくれた。鍵当番らしい。「どっから来た?」「 東京です」などと片言で話しつつ、おじいさんは鍵を持って正面のガラス扉まで行き、閉じていた緑色のチェーン錠を開け、展示室に入れてくれた。吹き抜けの階段室だった。

2階のビブリオテークはファイブ(午後5時)からだが、今日はやっていないという。明日は?と訊くと、明日のファイブなら開いているだろうというようなことを言う。ほんとかなあ。「スペイン語かフランス語は話せないのか?」と訊く。「英語なら」と答えると、そりゃ困ったわという感じの反応がかえってきた。

展示はささやかなものだった。四面の壁のうち、階段のない三面に写真のパネルが数枚かけられていた。ベンヤミンの子ども時代から最後までの写真。カラヴァン作品の建設中の写真。ホルクハイマーからの手紙を含む、手紙や文書類の写真コピー数葉。

女の人が現れて階段を登り、二階の図書室へ入って行った。開館日を訊きにいった。しかし、じぶんはただの学生だからわからないと言われた。誰ならわかりますかと訊くと、ツーリスト・インフォメーションならという。そこで聞いてきたんですというものの、埒があかず。粘ってみたが、本当によく知らないようだった。おとなしく引き下がることにした。

帰りがけに、さっきのおじいさんに、グラシアスと声をかけた。おじいさんはカードゲームの最中で、手をあげて返してくれた。一緒にいた別のおじいさんも、ぼくの顔を見て、アディオスと言った。

再び駅を見に行った。駅前にも、案内板が立っているのに気がついた。

野良猫のたまり場らしい一画があり、しゃがみ込んで熱心にエサをあげている中年女性がいた。かたわらで、ちいさな女の子が途方に暮れていた。

シビックセンターには、翌日も、翌々日も、いずれも夕刻に立ち寄ってみた。一階の展示室は両日とも開放されていた。しかし、二階の図書室は閉室されたままだった。

おしまい

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