夕食のあと、夜のうちに宿代を払うことになった。
金額を言われて、代金を支払う。ネパールにはコインはないから、みんなルピー札だ。このお札は、どれもだいたいよれよれに汚れているものだが、わたしのわたしたお札なかに、汚れているばかりか、すこし破れかけた100ルピー札が1枚あった。それをみつけて女主人が「これは駄目だ」と言いだした。わたしが理由を訊ねると、破れているからだ、と言う。それはわずかな破れだから問題ないはずだ、とわたしは答えた。こんどは、まわりにいた彼女の子どもたちが騒ぎはじめた。「これは駄目だ、これは駄目だ」と口ぐちに言う。
多くの国では傷みの激しいお札はできるだけ受け取らないのが鉄則だという。偽札かもしれないし、そうでないとしても、じぶんがつかうときに相手に受け取ってもらえないリスクもある。だが、どのていどをもって、受け取れないほどの傷みと考えるか、その判断はむずかしい。
かれらとしても、わたしの出したお札が偽物だと心底本気でおもっているわけではないのだろう。ただ、できればべつのもっときれいなお札を受け取ったほうが無難だとおもったにすぎないのだろう。もちろん、かれらは、われわれがまだお札を、それこそ山のように所持していることを知っていた。1枚くらい取り替えることなど造作もない。そして、かれらのその考えは、たしかに間違ってはいなかった。われわれはまだルピーだけで数千もっていた。
彼女たちがなにを言おうと、わたしはがんとして譲らなかった。受け取れないほど激しく傷んでいるようには、どうしてもみえなかったからだ。
けっきょく最後は彼女たちが折れた。わたしは部屋へ戻った。その夜はなかなか眠れなかった。
はたして、わたしのとった態度は正しかったのだろうか。
彼女たちの要求するように、100ルピー札をもっときれいなそれに交換しようとおもえば、できる立場にあった。わたしはなぜそうしなかったのだろうか。けっしてRs.100が惜しかったわけではない。もし日本円に換算するとするならば、せいぜい200円ほどのものだ。なくしたとおもえば済む金額だ。
しかし、わたしにはそういう納得の仕方を受け入れることができなかった。なぜか。それは、ここが日本ではなくネパールだからだ。ネパールにいるのだから、ネパールの世界のなかで物事を考えるべきではないか。そうおもったのだ。
とするならば、ネパールの人たちにとってのRs.100は、われわれにとって200円ではなく、あくまでRs.100だ。たしかに通貨を換算すればそういう計算になるかもしれないが、それはあくまで計算上の問題にすぎない。われわれはすぐ「Rs.100=たかが200円=安い安い」式に物事を考えてしまう。だが、それを担保しているのは、ただひとつ、日本とネパールの経済を比較すると、圧倒的に前者のほうが強力である、という事実だけだ。われわれは日本の経済圏に暮らしているが、その経済力が相対的に強力であるのは、わたし自身の努力や能力とはほぼ無関係である。ただ偶然そういう国に生まれ育っただけにすぎない。おなじことが、かれらネパール人にもいえる。われわれは、世界のなかでたまたま相対的に強い経済力をもつ国に暮らしている。その事実の上に依拠しているからこそ、よその土地を旅するなどという、腹の足しにもならぬことができる。それだけで充分ではないか。
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