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散歩旅のもくじ


黄金崎不老ふ死温泉──2001/01
 
1──鉄道好き
2──「こまち」から五能線まで
3──黄金崎不老ふ死温泉
4──雪だるまをつくる

     

4雪だるまをつくる

 

   朝食はバイキング形式だった。「夕陽」と名づけられた食堂でとることになっていた。数種類の料理を皿にとってテーブルにつく。海に雪が降るのを窓ごしに眺めながら、ビールを飲んだ [*]。イカの塩辛と岩のりの味噌汁が格別にうまかった。
[*] ビール1本600円。大瓶である。「ビールください」と頼むと、銘柄を訊ねられる。わたしのばあいはキリン一番搾り。なおイカの塩辛は帰りにお土産として一瓶もらった。宿のオリジナルのものだった。    宿はお正月で混んでいた。青森や秋田からクルマで来ているひとたちもすくないないらしい。だがその多くは1泊で帰ってしまうようだった。でも、できればひとつの宿に2泊はしたい。子づれ旅ならば、とりわけそうだ。


これは2日めの夕食。残念ながら「新鮮な」魚介類というわけにはいかなかったが、お正月と時化のためだろうから、これはやむをえまい。カレイの唐揚げは揚げたてをだしてくれた。鍋はきりたんぽ。夕食は部屋出しではなく、いくつかある宴会部屋のなかの指定された部屋でとる方式だ。

 

 宿のまわりには、とりたてて著名な名所旧跡はない。こちらも、そういう場所へ行くつもりはない。ただ散歩できれば、それでいい。
 さいわいこの日の午前中だけ一時的に雪がやみ、雲間に青空すら見えた。雪の残る道をざくざくと歩いていくと、宿の裏手の丘の上に艫作崎灯台が顔をのぞかせていた。あそこへ行きたい、と《みの》が言う。灯台へ通じる道路の入口まで行ってみた。だがそこから先の道は除雪されておらず、とうてい灯台までたどり着けそうになかった。初めのうちこそよろこんで歩いていた《なな》は、靴が雪で濡れて冷たくなることがわかると急速に不機嫌になり、せがんで《あ》におんぶすると、もう降りようとしなかった。
 すぐ脇に、大きな石碑が建っていた。「五能線全通記念」の碑。このあたりは、五能線の中間地点だ。五所川原側からと能代側からすすめられた敷設工事が、ちょうどここで合流したのだろう。昭和11年8月と日付が彫られている。義母が生まれたころだ。


こんな雪だるまができた。 《なな》いわく「くまさん」。
 

 人通りもあまりなさそうなので、石碑の下に雪だるまをつくることにした。
 《みの》がせっせと雪をかき集めてきた。雪はアラレのように小さく固まっていたので、まるめて大きくすることはむずかしかった。それで雪だるまは、スカートをはいているみたいな恰好になった。落ちていた草の葉と松ぼっくりで目鼻をつけた。松ぼっくりの耳までつけたので、パンダのように見えないでもなかった。《なな》は雪だるまにむかって「くまさーん」とよんだ。

 再び雪が降りはじめたので、ぶらぶら歩いて宿へ戻ることにした。親子丼の昼食のあと部屋へ帰って子どもたちは昼寝をした。雪はますます激しくなり、枯草色をしていた地面がみるみるうちに白く染まった。そしてそのまま降りやむことがなかった。
 翌朝までに数十センチは積もったろうか。朝早くからブルドーザーが出陣して、せっせと駐車場の雪かきをしていた。この時期にこんなに降るのは数年ぶりのことだ、と宿のひとは言っていた。

帰路、岩館駅のまえで。  

 


 艫作駅をでる東能代行きは、朝7時すぎの列車のあとは14時すぎまでない。ただし途中駅である岩館からなら、1131に列車がある。宿ではマイクロバスをだして岩館まで送ってくれるという。

 

 きっと昨日の雪だるまさんが見えるよ、というので、わざわざ左側のシートに腰かけた。
  バスが発車した。子どもたちは窓にへばりついていた。石碑の横をとおりかかる。雪だるまをつくった場所にも、やはり雪は積もっていた。雪だるまのかたちはもうわからなかった。けれど、そこだけ雪を山盛りにしたみたいに、こんもりとした三角になっていた。

    ──終わり
     

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