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はじっこ散歩記
北海道、与那国島、波照間島、ハワイ島──1995/07-08, 1996/10
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 3──最西端をめざす

 羽田から数えて3つめに乗り継いだ飛行機はYS-11だった。キャビンには空席が目立ち、シートにはほころびが目立った。窓からは、海面下に珊瑚礁がひろがっているのが見てとれた。

 幻の最東端到達から約1カ月後、わたしたちを乗せたYS-11機は、沖縄は八重山諸島、与那国島の空港に降り立った。空港というより原っぱとよぶのがふさわしいとおもわれた。ヘルパーとおぼしき女性の運転する迎えの軽ワゴンにのって、宿にむかう。開け放たれた車窓から風が流れ込む。むわっとした熱気だ。道路の周囲にはただただ茫漠と草が生い繁っている。耕地なのかもしれず、ただ草の生えるにまかせているようにもみえる。5分も走ったろうか。急に道の幅員が狭くなり、民家の姿が認められるようになった。2つ3つカーブを抜けたかとおもうと、ちいさな港に出た。港を取り囲むようにして数十軒の民家が建っていた。その片隅に、わたしたちの泊まる民宿「はいどなん」はあった。

 ヘルパーの女性によれば、1泊7000円の部屋と4500円(?)の部屋があるという。われわれは後者を選ぶ。四畳半。トイレ・シャワー共同。磨りガラスの窓がひとつ。窓の外にはコンクリートの無愛想な壁が立ちふさがり、その上に、屋根と屋根に切り取られて四角になった空があった。空港の建物を出た瞬間から全身より汗が吹き出していた。それがいつまでたってもひかない。部屋に備え付けの1時間100円のコインクーラーをつける。3人とも熱気にあてられたようになって、畳のうえにからだを横たえたまましばらく動けなかった。

 翌日、車を借りて島内をまわってみることにした。与那国島はちょうど米粒を横倒ししたような形をしている。「はいどなん」のある久部良は、地図でみると米粒の左端にある。それはすなわち日本国最西端を意味する。与那国島は八重山諸島の西端に位置しているからだ。こんどこそ正真正銘である。そのほんとうの最西端は「はいどなん」の玄関からのぞむことができた。港をはさんで反対側がちいさな丘になっている。丘は西の海にむかって徐々に隆起し、いちばん高くなったところから一気に海へ落ちている。そこが最西端、西崎なのだ。西崎と書いてイリザキと読む。ちなみに島の東端は東崎、アガリザキとよばれる。

 朝、レンタカー屋の迎えの車で宿を出た。祖内という島の中心的な集落で車をうけとり、そのまま東崎へ。ここの四阿に腰をおろし2時間ほども海をながめる。東には西表の島影がかすんでいる。西に目をやると、島はちょうど舳先からふりかえった船のようにみえる。大海流中を航海する外洋航路船である。南西から北東へむかってとうとうと流れる黒潮のただなかに浮かんでいる。そして海は圧倒的な量感をもって、島と空以外のすべてを制圧している。《みの》は四阿のベンチをつたって歩き、ミルクを飲んで午前中の昼寝をした。

 そこから島を周回するようにつけられている道路を時計回りにのんびりまわる。途中、べつの四阿で前日売店で仕入れたパンを食べ、浜で海に入り、《みの》に午後の昼寝をさせたりしながら、西崎に着くころにはもう夕刻ちかくになっていた。丘の中腹にある駐車場に車を停める。ひと息で丘を登ると、灯台とパーゴラのある広場に出た。西崎だ。脇に碑がある。「日本国最西端」と刻まれている。北緯24度27分、東経122度55分。到達記念にさっそく写真を撮る。セルフタイマーをセットしているうちに、《みの》のかぶっていた麦藁帽が風にとばされた。帽子はかれを抱いた《あ》の足許に転がり、そのまま写真におさまった。

 西崎から海上を西へとむかい120kmも行けばつぎの陸地に出会う。そこはもはや台湾だ。その影は晴れた日には西崎からもながめられるという。この日は午後になって薄曇りになり台湾はのぞめなかった。目視できるのは実際には年間で数日らしいから、それはまあ気にせずともよい。

 帰りに久部良の漁港に立ち寄った。質素なコンクリート造の建物は久部良漁協だ。あたりにはここの人のものだろう、数台の車が停めてあった。「沖」ナンバーに混じって「岐阜」のナンバープレートをつけたものもある。この港を有名にしているのはカジキ漁だ。久部良の漁師は、もとをただせば糸満から来た海人(ウミンチュ)だという。かれらはサバニとよばれる刳り舟にひとり乗り込み沖へ出、1本の銛とみずからの腕と経験だけを頼りに、体長数mにおよぶカジキをしとめるのだ。本橋成一さんの写真集『老人と海』や、未見だが同名のドキュメンタリー映画はこれに取材したものである。ただし現在のサバニはFRP製の船体をもち船外機で航行する。

 このときもちょうど一隻の漁船がもどってきたところだった。カジキが水揚げされていた。1本のカジキが天井からつり下げられていた。体長は3mではきかないようにおもわれたが、それでもさほど大物とは言えないということだった。カジキの特徴といえる、のこぎり形の鼻は、すでに根本からすっぱり切りとられていた。のこぎりを切りとられたカジキはもはやカジキではない。他ならぬ頭上のカジキ自身がそのように諦観しつつ、ぶら下げられるにまかせているようだった。

 レンタカーを返却して「はいどなん」へ戻ると夕食の時間だった。献立はごく質素なものだったが、カジキの刺身が5切れほどついていた。《みの》にはこれまで生魚を食べさせたことがなかった。新鮮なんだからいいか、といって《みの》にやると、ぱくぱく食べた。食堂のテレビが気象情報を映していた。NHKの衛星放送だろうか。夕日が窓から朱色の光を射し込ませながらたちまち海没していった。  食後、外へ出る。玄関を出て道をわたり、ペンキの剥げた木製の船台に腰をかけて夕涼みをした。むこうの桟橋では地元の子どもたちがつぎつぎと海に飛び込んだりして遊んでいた。空にはいつまでも茜色の明るさが残っていた。




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