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散歩旅のもくじ

ランタン谷トレッキング
ネパール──1997/04-05
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970426 カトマンズ→シャブルベンシ

 ランタン谷への登り口、シャブルベンシまで、きょうは一日バスで移動だ。
 シャブルベンシ行きのバスは一日1本。チケットは昨日Rさんが手配してくださっていた。Naya Bus Parkから0700に出発、ナンバーは4025、シートは11-16、料金はひとりRs.110。チケットはすべてネパール語で書かれている。数字も算用数字とは異なるので、われわれにはさっぱり理解できない。
 0500に起床、タクシーに迎えに来てもらい、0600に出発した。ものの5分でバスターミナルに着いた。ターメルの北東のはずれに位置し、かなり広々としている。すでに十数台のバスが待機している。
 ターミナルで最大の問題は、われわれの乗るバスをどうやって見つけ出すか、ということであった。が、これはあっけないほど簡単に解決した。タクシーを降り、チケット売場へ近づいていくと、数人の子どもたちが手に手にミネラルウォーターのペットボトルをもち、達者な英語で「水を買わないか、水を買わないか」と言う。水はもってるけど、きみたち、シャブルベンシ行きのバスがどれか知らないかとチケットをみせながら訊ねると、そのうちのひとりの少年が「こっちだよ」と案内してくれた。
 「こいつだよ!」と水売りの少年が元気よく指さしたバスは、かなり年期の入った代物であった。一昨日乗った軽バンもおよばぬほど、そう、地球を10周はしているのではないかと想像されるほど徹底的につかい込まれているようだ。フロントグリルに"TATA"(インドの財閥企業)のプレートをつけ、チアガールのもつポンポンのようなふさふさした飾りがフロントガラスを縁取っている。水売りの少年が、バスのなかから赤いシャツを着た少年をよんできた。「かれはセカンド・ドライヴァーだよ」。セカンド・ドライヴァーくんはまだ10代なかばくらいだろうか、浅黒い肌に目元が涼しく、精悍で、頭のよさそうな少年だった。わたしがチケットをみせると、座席はこちらと案内し、荷物はバスの屋根の上の荷台に積むから預かるよ、とてきぱきと応対してくれた。
 水売りの少年が「よかったね。ところで、水買わない?」と言う。水はいらないけど、助かったから案内料だよ、と言って、手元にあったRs.20を渡した。
 公衆トイレに行って戻ってくると、Tさんがバスをみあげていた。屋根上の荷台に、セカンド・ドライヴァーくんがヤギを乗せようとしている。それも数頭。「うーん、ネパールは3度めだけど、ヤギを乗せるバスに乗るのは初めてだ」とTさんがつぶやいた。
 ターミナルの片隅に、若い女性がポットひとつで営業しているようなチャイ屋さんがいくつもあった。そのひとつで、Tさんとチャイを飲んだ。もちろん生まれて初めての経験だ。お猪口のようにちいさなガラスのコップに注がれたチャイは、おいしかった。そうとう甘かったけれど。Rs.2/glass。

 出発時刻が近づいた。座席についていると、物売りがつぎつぎとやってくる。ほとんどが、4, 5歳から12歳くらいまでの少年だ。売っているものもさまざまである。ミネラル・ウォーター、みかん、ライター、ガム、時計、新聞、なにかよくわからないチケットみたいなもの……。さっきの少年がやって来た。座席を順番にまわって、「水、買わない?」とやっている。われわれのところは、ニコッと笑ってとおりすぎた。中学生くらいの子どもを2人つれた西洋人のところへ行くと、その西洋人は"No thanks, I have too much water"と答えていた。なるほど、そういう言い方があるのか。べつの少年が来た。ぼろぼろの身なりで、右目と左目の向きが合わず、手にはなにももっていない。座席を順番にまわり、坐っている旅行者にむかって、ただ黙って手を差し出す。その手がかすかに震えている。ひととおり座席をまわったかれの手の上には、けっきょくなにも載らず、かれはバスを降りて、べつのバスへ向かった。
 Rさんが見送りに来てくれた。彼女はこれから語学学校へ行くのだそうだ。40ほどの座席はほぼ満席になった。髭をたくわえたおじさんがやってきて、運転席に乗り込んだ。セカンド・ドライヴァーくんがボディを激しくたたきながら、声をはりあげた。「シャブルベンシー、シャブルベンシー!」。それに答えるかのように、ププーとクラクションが長く鳴り、バスが動きはじめた。0700をすこしすぎたころだった。
 Rさんに手を振っていると、《あ》がバス停の隅っこを指さした。さきほど車内へ来たぼろぼろの少年がポケットからお札の束を出し、一枚ずつ勘定していた。よれよれのルピー札ばかりだが、束の厚みはかなりあるようにおもわれた。勘定をしていたぼろぼろの少年がふと横をみた。そこには、かれよりやや年長の物売りの少年がいた。目と目があうと、年長の少年は「おまえ、やるなあ」という感じでニヤリとした。ぼろぼろの少年は、ふたたびお札の勘定に戻った。さっき、わたしの前に差し出したときとは違って、もう手は震えていなかった。

 ターミナルを出たバスは北をめざす。ランタン谷の麓の村、シャブルベンシまでは約70km。それを走破するのにまる一日かかるというのだから、よほど道が悪いのだろう。
 ほどなくバスは登り坂にさしかかった。右手にカトマンズの赤茶けた町並みを見下ろしながら走る。カトマンズは盆地なので、どこへ行くにも外周山脈を越えて行かなくてはならない。
 ネパールは日本と同様左側通行だ。対向車はバスの右側をとおっていく。ここはいちおう幹線道路なのだろうが、幅員が狭い。そこをほとんど減速せずに走り抜けていくので、みているとヒヤヒヤする。
 シートはお世辞にも快適とは言いがたい。造りは実用一点張りで、前の座席との間隔も狭く、膝がつかえる。いちおうリクライニングの装置がついているようだが、その機能をはたさなくなって久しいに違いない。中途半端な角度で止まったままだ。車内は埃っぽい。むろん空調などないので、窓は開けてある。ドアも開け放しで、ステップにはセカンド・ドライヴァーくんが立っている。セカンドと紹介されたが、運転を交代したりするわけではなく、実質的には車掌とか助手のような仕事らしい。出発して30分も走ると舗装が途切れ、あとは延々とダートがつづく。埃っぽいこと、このうえない。
 0805と0945にそれぞれ10分ほどの小休止をとった。数軒の民家が固まっている集落で、それぞれで屋根の上に荷物を追加した。ヤギもだ。乗客たちは付近をぶらぶら歩き、草むらで用を足した。
 1030、チェックポイント。セカンド・ドライヴァーくんにうながされ、トレッカーだけがバスを降りて屯所へ行き、警察官か兵隊かはわからないがとにかく制服の警備員にトレッキング・パーミッションをみせ、サインをもらう。イミグレーションのときと同じく、事前にTさんから「ボールペンを渡すと返してくれないぞ」と言われていたのだが、実際にはそんなことはなかった。チェックが済むとゲートのポールがあがり、バスは走りはじめる。5分も行かぬうちにトリスリの町に入り、バスは止まってしまった。ランチだという。時計をみると、まだ1040だ。近くのめし屋に入り、フライドライス(炒飯)やヌードルスープ(インスタントのラーメン)の昼食をとる。
 1125、クラクションとともにふたたび出発。乗客が増えている。通路にはびっちりとネパーリたちが立ったり、あるいは隙間をみつけて坐り込んだりしている。屋根の上にも何人か乗っているようだ。荷物が心配である(シャブルベンシに着いてみたら《あ》のサングラスが抜かれていた)。トリスリを出発して以降、どんどんと山を登っていく。斜面はていねいに石を積んでつくられた段々畑となっている。ときどき民家がある。屋根やベランダに素焼きの鉢が置いてあり、花や木が植えられている。茶と白と緑のコントラストがこのうえなく鮮やかである。
 バスは2度ほど停まる。どんどん人が乗ってきて、車内は満員である。登り坂がつづく。バスはあえぎながら登る。カーブをまがるときなど、いやでもかなり減速する。その隙をみはからって、バスに飛び乗る人がいる。すると、セカンド・ドライヴァーくん(赤いシャツの少年のほかに、もう一人いるようだ)がすかさず現れ、料金を徴収する。ときにはバスを降りてサンダル履きのまま併走したり、窓から屋根の上へよじ登ったりと大活躍である。みていて気持ちがいいくらいの働きぶりだ。こういう姿を、あまり日本ではみかけないような気がする。なにが、かれらをそうさせているのだろう。誇りだろうか。希望だろうか。

 1255、路肩に「トリスリより15km」の標識をみる。もうだいぶ高度をかせいでいるはずだ。はるか谷底に川が流れている。1345、2度目のチェックポスト。そこをすぎてしばらく行くと、村のお祭りなのか、大ぜいの人が集まっているところがあた。きれいに着飾った娘さんたちがまぶしい。
 1500、3度目のチェックポスト。屋根上に積んだザックを検査される。
  1540、ドゥンチェの手前で、屋根上の乗客たちがつぎつぎと飛び降りはじめた。 急坂を登れないようだ。飛び降りた乗客たちは、坂上まで走って登って先回りし、バスがよたよたやってくると、ふたたび屋根の上によじ登っていった。
  1635、ドゥンチェのチェックポスト。ここの警備はかなり厳重である。屯所の係員は入念にトレッキング・パーミッションをチェックする。名簿のようなものに名前と国籍、パーミッションの番号などを記入する。外へ出てバスが出るのをまっていると、係員のひとりが「日本人か?」と話しかけてきた。
 1700、ドゥンチェ(Dhounche)の村に着いた。ネパーリや西洋人トレッカーら下車。車内はかなりすく。15分の停車時間のあいだに、セカンド・ドライヴァーくんたちは相当量の荷物を下ろした。それにしても、かれらはほんとうによく働く。われわれがバスから戻ってくると、ネパール人の乗客がわれわれの座席に坐っていた。セカンド・ドライヴァーくんがすぐに飛んできて、座席をあけさせた。
 1750、Bharkhuの村に着いた。まだまだシャブルベンシは遠い。山腹を切り込むようにしてつけられた道を走る。谷をはさんで反対の斜面にも細い道が縦横に走っているのがわかる。送電線の電柱がある。こんな山中まで電気が引かれていることに感心してしまう。途中、落石のあとを通過した。
 1840、あたりがだいぶ薄暗くなるころ、立派な橋をわたって、ようやくシャブルベンシ(Syabrubensi)の村に到着した。11時間40分のバス旅であった。バスが停まった粗末な通りはそれでも村のメインストリートなのだろう、道の両側には、村の人がやっているホテルが並んでいる。"Snow Peak Hotel" とか、ほとんどいい加減につけたとしかおもえない名前の看板をあげている。そのなかの1軒(名前は忘れた)に泊まることにした。

  一階の食堂で、モモとフライドライスを肴にビールを飲む。ネパールでは町でも村でもビールはたいがい常温のまま出される。きわめて高価なものらしく、もっぱら外国人観光客向けの商品とされているようだ。部屋は二階。各部屋はベニヤ板で仕切られただけ、窓にはシミだらけのカーテンがぶら下がっている(むろん窓のない部屋もある)。それでも西洋流に一部屋一晩いくらのルームチャージ制をとっており、相部屋にはしない。ささやかなテラスに、カール・セーガンの遺著 "The Demon-Haunted World" が転がっていた(この本はその後、邦訳もでた。『カール・セーガン科学と悪霊を語る』新潮社、1997年)。


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