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散歩旅のもくじ

ランタン谷トレッキング
ネパール──1997/04-05
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970430 キャンジンゴンパ滞在

 朝、目が覚めてから、《あ》に頭痛薬をもらい服用する。頭痛は一向に楽にならない。
 Tさんたちは、今日はさらに奥にあるランシシャ・カルカへ行って来るという。もと飛行場のあったという場所だ。わたしは、村のすぐ目の前にそびえ立つピークに登ろうとおもう。すこしでも高いところに行ってみたいのだ。《あ》は頭痛と疲労がひどく、宿で留守番である。
 0655、Tさんたちを見送ったあと、ひとりで出発する。ルートがよくわからないので、適当に道のついているところを登っていく。宿の男の子にこのピークの名前を聞くと、「キャンジンリだ」と教えてくれた。カトマンズの本屋で買った"Lonely Planet: Trecking Nepal Himaraya" の地図をみると、たしかに "Kyangin Ri" というピークが記されている。標高は4300m。なんとかそこまでは行ってみたい。
 30分ほど歩いて休憩にする。キャンジンゴンパの村が一望でき、その向こうに深い谷をはさんで白峰が屹立している。すばらしい眺めに、しばしみとれ、カメラにも収める。休んでいると、下からシェルパやガイドをしたがえた西洋人の家族づれ一行があがってきた。では、そろそろ出発するか。
 しばらく行くと、先ほどの休憩地点にカメラを忘れてきたことに気がついた。あわてて戻りかけると、下から一行のうちネパーリのガイドさんがものすごいスピードでこちらへ向かってくるのに出会った。わたしが忘れたカメラを届けにきてくれていたのだ。ガイドさんのあとから、一行のリーダーであるお父さんが追いついてきた。ていねいにお礼を言う。
 ルートはキャンジンリの右側にある谷沿いつけてあるようだ。村はみえなくなり、はるか上に尾根がみえ、その向こうに白い頂が頭を出していた。あれがランタンリルンに違いない。キャンジリンリ山頂が左手にある。タルチョーが何本もはためいている。だが、そこへ行くルートがみあたらない。どうやら途中で見落としたらしい。灌木すらない高山のこととて、その気になればルートをはずれてトラヴァースしてくこともできるが、まだ時間は早い。このまま上にみえる尾根まで行ってみることにしよう。
 ふたたび登りはじめる。キャンジンリはわたしの左手下方にみえる。ということは、ここは標高4300mをすぎたところだろう。昨夜あれほど痛かった頭に、いまは不思議に痛みは感じなかった。ただ、くらくらする。平衡感覚が万全ではないようだ。意識的に呼吸のリズムをとるようにし(はく、はく、吸う)、歩調もゆっくりにする。何度も休憩する。あたりには物音がほとんどしない。ときどき、わたしの気配に驚いた鳥が、ピピーと鳴き声を残して飛び立つくらいだ。あとはただ、しん、と静まりかえっている。陽が降り注いでいる。蒼い空を白い雲がびっくりするほどの速さで横切っていく。振り返ると、先ほどの西洋人家族たちがキャンジンリ山頂に到達したのが下方にみえた。
 0845、尾根に到達した。反対側は急激に落ち込んだ深い谷になっていて、その向こうには巨大な氷河、そしてランタンリルンの偉容が眼前に迫ってくる。稜線沿いのすこし先にピークがある。そこまで行きたい。だが、谷からは猛烈な勢いで風が吹き上げてくる。うっかりしていると吹き飛ばされそうだ。怖くて直立できず、かえって危険だとは知っていても、中腰でしか歩けない。
 0900、山頂に立つ。ここまで来ると、風は微風である。数本のタルチョーがはためき、ケルンが積んである。はるか下にキャンジンリのピークが見下ろせる。村はその陰になるのか認められないが、その向こうの深い峡谷に川が流れているさまがみえた。地図を確認する。どうやらメンチェムチェ(Menchemche: 4700m)であるようだ。
 いつまでも山々を眺めていたかったが、そうもいかない。15分ほど滞在したのち、下山を開始する。やせ尾根沿いにまっすぐ降りていけばキャンジンリだ。ちょうど下からは、西洋人家族の子どもたち数人がシェルパたちとともに登ってきた。すれ違うとき挨拶をかわす。ピークまでどれくらいかと訊かれたので、すぐだよ、と答えた。
 15分でキャンジンリ山頂へ到達した。ここには西洋人家族のうち、夫婦とガイドさんの3人がいた。子どもたちがメンチェムチェへ往復するあいだ待っているつもりなのだろう。先ほどの礼をあらためて述べ、すこし世間話をする。ロンドン在住で、ご主人が音楽出版社のエディター、奥さんがチェロ奏者なのだそうだ。うーん、すごいですねえ。「わたしも編集者なのです、学術出版のですが」と言うと、ご主人は「JASRACの××さんを知っていますか?」と言った。知りません。かれらはネパールは3度目だと言った。
 わたしは、かねて用意のコンロとコッヘルを取り出し、紅茶を淹れることにした。西洋人夫婦にもどうかと勧めたが、固辞された。とにかく土地の食物を一切口にしないことにしているようだ。ガイドさんに勧めると、かれは喜んで紅茶を飲み、お茶請けのクッキーもおいしそうに食べてくれた。
 1025、ふたたび下山開始。ここまで来ると、村はすぐ眼下にみえる。下りは早い。転がるように降りて、1100にはキャンジンゴンパの村に帰り着いた。  昼食のあと、しばらく宿の前のイスに坐って、宿の男の子やべつのグループのシェルパたちと世間話をした。
 かれはチベット人で、生まれもチベットだそうだ。キャンジンゴンパでいちばん大きなHotel Yala Peakで住み込みで働いていた。そこの主人はひどい人で、真冬というのに外に裸足で外へ立たせることもあった。そのときの傷跡がこれだ、と言って、かれは踵をみせてくれた。大きな傷跡があった。そのあと独立してゲストハウスを始めることにした。このFriendly Guest Houseは賃貸だ。賃料は一年でRs.4000。一年分を一括で支払わねばならない。今年も期限が近づいてきているが、とてもそんなには払えない。もし購入するとすればRs.400000必要だが、そんな金はとうてい用意できない。賃料が払えなければ、あとはカトマンズにでて仕事を探すほかはない。
 英語はじぶんで覚えた。帰国したお客さんが辞書や教科書を送ってくれたので、それで勉強したりもした。日本語や韓国語もほんのすこしだが話せる。
 ここは一年のうち半分以上が冬だ。そのあいだも、この村に住んでいる。あたりはなにもかも真っ白になる。なにをするでもなく、ただ食べて寝るだけ。
 食堂にある大きなストーブは、カトマンズで買った。ヘリコプターでランタンまで運んでもらい、そのあと分解して運んできた。
 午後、ふたたびゴンパ前の岩の上に行き、山々と村のたたずまいを眺める。目の前の広場にはいくつもテントが張られ、白人が日光浴をしている。かれらはシェルパを雇い、キャラバン方式でトレッキングをしているのだ。岩のすぐ下では、シェルパたちがなにか賭事に夢中になっていた。
 チベタン(チベット人)の衣装を着たひとりの中年女性が声をかけてきた。ちかくでチベットの民芸品を売っているのだが、その案内の文章を日本語で書いてくれないか、と言う。日本人はたくさん来るのだが、みんなツアー客だ。日本人どうしで固まっているうえに、日本語以外のことばをあまりしゃべらないから、なかなか声がかけにくいのよ、という意味のことを言っていた。
 しばらくすると、こんどは宿の男の子がやってきた。イスラエルの友だちが2年ぶりに突然やってきた。申し訳ないけど、一部屋あけてもらえないだろうか、と言う。《あ》にもわたしにもまったく異存はないが、いちおう今回の旅行はTさんがリーダーということになっている。事情はよくわかったので、Tさんが戻ってきたらそう頼んでみる、とこの場は答えざるをえなかった。かれは、わかった、と答えて帰っていった。
 風が冷たくなってきたので、1500すぎに宿へ戻った。そのイスラエル青年は隣のホテルに行っているようだ。1700すぎ、ようやく戻ってきたTさんに事情を説明すると、快く「かまわないよ」と言ってくれた。宿の男の子はうれしそうだったが、あとで現れた当のイスラエル青年はあんまりおもしろくなさそうだった。まあ、無理もなかろう。
 夕食をとっていると、予期せぬお客さんがあった。今朝、キャンジンリで会った英国人夫妻がわざわざ宿を探しだして訪問してくれたのだ。こういうのが英国流の習慣なのかどうかはわからない。たしかに、かれらにテントへ遊びに来てくださいねと言われたのだが、わたしは、ことばどおり受けとっていいものかどうか計りかねていた。ありていに言えば、社交辞令だとおもって受け流していたのだ。
  Tさんたちに、山の上で会ったのだと説明すると、ご主人が言った。"He is a nice walker". わたしも含め、われわれはどうも英語が苦手のため、せっかく来てくださったのに充分楽しませてあげることができず、残念であった。


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