チェルノブイリを見にゆく話その10。前回その9はこちら。
共同住宅の屋上から降りてきた。また藪を漕ぎ、いくつかの建物を見たあと、少し広くなった場所へ出た。「レーニン通り」と名づけられた大通りだったという。G氏が当時の写真を掲げて見せてくれた。現状と比較する。きっちり区画されて整備の行き届いたニュータウンは、30数年を経て、いまは草木に埋もれつつあるゴーストタウンである。
計画的なまちづくりゆえ、娯楽施設も随所に存在した。映画館があり、劇場があり、体育館があった。
学校にも入った。プリピャチには小中高あわせて何十もの学校があったらしい。
ある教室では、床一面に防毒ガスマスクが散乱していた。
いかにも原発事故時の混乱を伝えていそうな雰囲気満々の光景である。しかしながら、これはまさに、イメージにあうようにしつらえられた現実、といえるかもしれないものだった。
G氏によれば、じつはこのガスマスクは原発事故とは直接かかわりはない。冷戦下の旧ソ連では、万が一の敵(アメリカのことだろう)からの核攻撃にそなえて、すべての学校にマスクが配備されていた。事故後に廃墟となったあとにやってきた観光客もしくは無許可で侵入しただれかが、これらを床にぶちまけたのだろう。そうG氏は説明した。
物理学実験室だったような部屋に入った。壁に、著名な物理学者の肖像画が飾られていた。キリル文字なので、ぼくにはさっぱり理解できない。G氏がそこに添えられた名前を読みあげた。「ラ、ザ、フォー、ド」
するとNとRのオランダ青年二人組が口々に、「だれ? それ」という。「さあね」とG氏も首を傾げる。
「原子物理学を創始した有名な学者だよ」とぼくが言った。だが、かれらは「へええ」というばかりで、あまり合点がいったようすはない。ガイドとして何十回もここへ来ているはずのG氏でさえ、初めて聞いた話であるかのような顔をしていた。そうなのか?
ラザフォードについて知りたい方は、まずはWikipediaでもごらんください。
その11へつづく。