チェルノブイリを見にゆく話その14。前回その13から少々間があいたが、ぼちぼち再開する。
犬が去ってゆくのを見送った。雨は降ったりやんだり。急に晴れ間がでることもある。そうこうしているうちに1800をすぎた。日暮れは2130ごろなので、まだまだ明るいが、そろそろ、廃墟となったかつての原発都市プリピャチを出発して宿舎に入る時間だという。
宿舎は原発から10kmほど戻ったチェルノブイリ村にある。日のお昼にもランチをたべに立ち寄ったのと同じところだ。戻る途中、また検問所を通過する。出るときは、いったん下車して小屋に入り、被曝線量のチェックを受けさせられた。
古めかしい鋼鉄製の機械をだきかかえるようにして線量を計る。ガシャンと大きな音がする。問題がなければ、そのままいってよい。
チェルノブイリ村は、事故のさい一時は避難対象となったらしい。風向きの関係なのか汚染度は比較的軽かったとのことで、その後復旧のための拠点となった。いまもその状態がつづいている。ただし、ぼくたちのような観光客が勝手に村内を歩きまわるようなことは認められていない。基本的にはホテルでの滞在が許されているだけだ。
ホテルといっても建物は質素だ。木造二階建ての仮設のような建物である。入って左手が宿泊室で、右手にレストランがある。
ぼくたちがレストランに入ったときには、すでに店内はほぼ埋まっていた。みなチェルノブイリ観光のひとたちのようだ。窓際のちいさなテーブルに、四人がつく。G氏はここまでぼくたちを連れてきたあと、姿を消した。別の部屋で食事をとるようだ。
食事の料金はツアー代に込み。チキンピカタのようなものがだされた。ウクライナのごくふつうの料理なのだろう。全体にボリュームはかなりある。
飲み物は別で、カウンターでそのつど買う。英国のパブ方式である。ビールなどアルコール類もおいているが、飲酒は2100まで、とのこと。オレゴン娘のMが黒ビールをもらってきた。おいしそうだったので、ぼくも同じものをもらった。キエフのビールなのだろうか、たしかにうまかった。
ぼくはビールをのむときはなにか食べながらがいい。いっぽうオランダの二人組NとRは先に食事をとってからビールを飲みはじめた。そういう習慣らしい。そのうちみんなご機嫌となり、おしゃべりが弾んだ。
日蘭関係の話になった。ぼくが、日本にとってオランダは、江戸期の鎖国時代に唯一国交があった西洋の国であり、深い関係があるという話をしたが、オランダ組のNとRの反応はいまひとつ。ふうん、そうなんだ、そういえば学校で習ったかも、というくらいだった。そして逆に、第二次世界大戦についてどうおもうかと訊かれた。言いたくなければ言わなくてもいいんだけど、と言い添えたのが興味深かった。
ぼくはじぶんの意見として、あの戦争はするべきではなかったし、そもそも「正しい戦争」というものは存在しないとおもうと答えた。さらに、こう付け加えた。きみたちに質問されて気がついたのだけれど、多くの現代日本人にとって、第二次世界大戦でたたかった敵国が米英だったという認識はあっても、そこにオランダも含まれていたことは忘れているか、そもそも知らないだろう。それもまたぼくたちが考えなければならない問題だとおもうと。
するとかれらは、いやいやどんな国でも過ちは犯す、おれたちの国(オランダ)だって、第二次世界大戦のあとインドネシアとの植民地独立戦争で辛酸をなめたというようなことを言った。そういえば、Nはオランダ海軍の兵だか下士官だかなのだった。
その15へつづく。