チェルノブイリを見にゆく話その22。前回その21はこちら。
鉄道橋とプロメテウス像の見学を終え、ミニバスに乗り込む。構内をぐるっとまわる。途中には別の鉄道橋が見えた。さっきの鉄道橋は現在はあまりつかわれていないように見えたが、こちらの鉄橋は、原発で働くひとたちの通勤につかわれているのだという。
ぼくはこちらに来るまで知らなかったのだが、1986年の事故のあとも、チェルノブイリ原発では、残った1−3号炉が稼働をつづけていたのだという。原子炉がすべて停止したのは2000年のことだった。その後は、1−3号炉の廃炉作業と、事故をおこした4号炉を覆うコンクリートの石棺の劣化にともない、それに変わる金属シェルターの設置作業がおこなわれてきた。
最初の鉄橋とほとんど反対側の位置にまわりこむ。そこには鉄道引き込み線が走っていた。そのすぐ隣が、事故をおこした4号炉である。
整備されたちいさな広場があり、コンクリート造の像がたっていた。事故の被害者を慰霊するための像だという。ここから、4号炉を間近に臨むことができた。
ここで写真を撮る。金属シェルターは、正式には The New Safe Confinement (NSC) とよばれている。日本語版Wikipedia の訳では「新安全閉じ込め構造物」である。
金属シェルター NSC が完成したのは2019年7月3日のことだというから、ほんの三週間前のことだ。建設資金は米国や日本などいろんな国が拠出したのだという。
ミニバス車内で見せられたビデオのなかでは、この金属シェルターで覆うことで4号炉周辺にひとが立ち入ることができるようにし、そのうえで内部で廃炉作業をおこなうことをめざすという目算が語られていた。
ぼくがG氏に、廃炉作業にどのくらいの期間を見込んでいるのかと訊いたところ、しかし逆に「まだ廃炉どころじゃないんだ」と叱られた。事故から33年が経過したにもかかわらず、内部にはまだ溶けた燃料が残っており、高線量で調査もままならず、正確なようすもはっきりしないのだそうだ。
G氏の口吻の烈しさは、意外なほどだった。そこに、チェルノブイリの観光ガイドとして生きるキエフ人としてのかれなりの、複雑に屈曲した気持ちが込められているように感じられた。
とにもかくにも、金属シェルターのおかげで、ぼくたちのような一般人も4号炉前までは立ち入ることができるようになった。だが手元の線量計を見ると、ここでは周辺の他の地域とくらべて、やや高めの数値を示していた。
そのうち、別の見学者がやってきた。写真を撮りたいのでそこをあけてほしいというようなことをG氏に言ったようだ。ちょうど潮時ということで、また移動することになった。
その23へつづく。