シンガポールにある面妖な仏教テーマパーク、ハウパーヴィラの話のつづき。前回(その4)はこちら。
責め苦につぐ責め苦
地獄に落ちた死者たちを待ち受ける責め苦につぐ責め苦。
はてしなく襲いかかる悲惨な「罰」のようすを再現したジオラマが、これでもかとばかりにつづく。どれも、グロくてえげつない。
ぼくと相前後するタイミングでこの建物に入った白人の母娘(といっても娘は30-40代くらいのおばさんで、母はかなり年配のひとだった)は、地獄の絵面を目にしたときおもわず息をのみ、それから深く嘆息した。
そりゃそうだわな。ダンテの『神曲』なんかよりよっぽどひどい話である。
脅し、のち「救い」
それにしても、よく考えてみれば、このひとたちは死者なのだから、もうすでに現世では死んでいるのだ。地獄に落ちるためには、まず死んでいなければならない。たとえどんな悪人であったにせよ、死ぬのは大変であっただろう。にもかかわらず、死んだあとになってまで、まだこんなめにあわなければならないなんて。
勘弁してほしい。誰だって、そうおもうだろう。ならば、現世で善行を積みなさい、と迫るのが、この手の言説の定型である。
典型的な例は、保険会社のCMなどに見られるものだ。欠落モデルというか、あなたにはこれが足りない、このままだとこんなひどいめにあうぞと脅しておいてから、それが嫌ならこれを買いなさいと「救い」をさしのべるというパターンだ。宗教の布教言説もしばしばこのパターンを共有している。
最後の審判
地獄に落ちた死者たちは、何十年だか何百年だかにわたってえんえんと地獄の責め苦を味わわされる。そうやってさんざん苦しめ抜かれたあげく、さいごにまた閻魔様の前に引き出され、最後の審判をうける。
そのあと、死者たちはどうなるのか。掲げられていた解説(中国語と英語の併記)によると、つぎのようなことになるのだという。
忘却の館と輪廻の輪
最後の審判のあと、死者たちは「忘却の館」Pavilion of Forgetfulness というところへ連れてゆかれる。そこには「孟婆」Meng Po という老婆がいる。下のジオラマの、右手奥にいるオレンジ色の着物を着たひとが、その孟婆らしい。
彼女に手わたされた魔法のお茶を飲むと、死者たちは、過去の生にかんする記憶をすっかり失ってしまう。
過去を忘却した死者たちは「輪廻の輪」 Wheel of Reincarnation をとおる。そこは6本の道にわかれている。死者たちがどの道をすすむかは、かれらの過去の生にしだいである。
そうして死者たちは生まれ変わる。ある者は人間に、ある者は動物に。ある者は悩みなどない安楽な生へ、ある者は悲しみと苦しみに満ちた生へ——。
こうして、死者たちは、ひとまず十大地獄を抜けだす。
ぼくたちも、この、陰鬱でありながらどこか滑稽な展示をたっぷりかかえこんだ建物から、吐きだされるようにして外へでる。