石垣島の最北端である平久保崎をめざして歩いた旅その16。けっきょく平久保半島を歩いて一周する恰好になった。明石の宿へ戻り、オリオンビールを飲みつつ、おじさんとおばさんの話を聞きながら、夜も更けた。
明石の砂浜で日の出を見る
翌朝、0700すぎに起きだして、砂浜へ向かった。西の空には、まだ月が白く光っていた。
今朝も、砂浜にはだれもいなかった。ほとんど無風。砂浜は東に向かってひらけている。
しばらく波の音を聞きながら、砂浜にたっていた。やがて、正面やや右手から、太陽が昇りはじめた。時刻は0730。
このときの砂浜の全景をパノラマ写真に撮ってみた。
この時間、この砂浜に、ひとりだけ。贅沢な時間だった。
日は、スルスルと音をたてるように滑らかに東の空を昇ってゆく。暮れるときもそうだが、地平線や水平線の近くにあると、太陽の動きが早く感じられる。
浜辺に打ち上げられていた、白化した珊瑚。昨日も同じようにここに鎮座して、やはり同じように黙って海を眺めていた。その姿は威厳を帯びており、まるでこの浜の主のように、ぼくには感じられた。それで、この白化珊瑚に心のなかで挨拶をして、浜をあとにした。
お世話になった宿をあとに
0745すぎ。東京だと朝の通勤でせわしない時間帯だが、この時期の明石の集落は、まだまどろんでいるみたいに静かだった。
宿に戻ると、朝食の準備ができていた。
昨夕、庭で見かけたアロエのお刺身(?)が見える。これとジーマーミー豆腐は毎朝でるらしい。納豆がでてくるのは、おじさんとおばさんが長く茨城に住んでいたからだとのこと。具だくさんのお味噌汁はいかにも琉球の味で、おいしかった。
おじさんは、今日は当番で、共同売店の店番にゆくのだという。明石のそれではなく、県道ぞいにある別の共同売店だ。地元のひとも来るし、観光客も来る。けっこう売り上げのあがるときもあるんだという。ふつうの勤め人ならとっくに定年退職している年齢だが、こうして毎日、ちょこちょこと、いろんな仕事をして働いているらしい。
宿の母屋には、ひろびろとした土間がある。その床は、ここで採れたらしい石が敷き詰められていた。外と内とがゆるゆるとつながった、のびやかな空間で、居心地がよかった。
宿の前で三人で記念写真を撮って、出発した。
開拓の碑
細い流れに沿った、教えてもらわなければ見落としてしまうほどの小径を抜けて、公民館(すなわち共同売店)の前にでた。バス停は、そのすぐ脇にある。
公民館前には、明石の開拓を顕彰する碑が建っていた。さらに詩碑と像もならんでいた。
開拓の歴史を刻み込んでおきたいという、なみなみならぬ意思を感じずにはいられなかった。像の台に刻まれた文言によれば、これらは入植20周年を記念して建立されたもののようだった。入植は昭和30年4月とあるから、昭和50年、1975年のことだ。それから現在まで、さらに44年の時間が流れた。
バスを待つ
その裏手には、芝生の広場があった。
学校の運動場のようにも見えるが、小学校は別の場所にある。いまも手入れの行き届いた、気持ちのよい広場だ。
道路を挟んで反対側には、お世話になった宿が見えた。おじさんが畑で作業している姿も見えた。そして、それを見守るようにして、トムル岳が背後にそびえていた。
バスを待っていたのは、最初はぼくだけだったが、まもなくわらわらとひとが集まってきて、最終的には5人ほどになった。
さらば明石
ほぼ定刻に、バスがやってきた。
平野を出発して、空港を経由し、離島桟橋ちかくのバスターミナルまでゆくバスだ。
ぼくは後方の座席に座った。するとすぐうしろに坐っていた白人の若者が、話しかけてきた。かれは、ぼくを明石の住人だとおもったらしく、パラグライダーのインストラクターをしているナントカという女性を知っているかと訊く。知らない、旅行者だから、と答えると、がっかりする。SNSかなにかで知り合ったらしかったが、それならなぜ会いに行かないのかは不明だった。
白人青年は南アフリカの出身で、いまは香港で働いている。八重山が好きで、つい4か月前にも来たばかりだという。昨日は平野に泊まり、ジョギングで明石の近くまで来たという。ぼくは平久保崎まで歩いて往復したという話をすると、どこかですれ違ったかもしれないなといった。このあとかれは、離島桟橋から西表島へ渡るのだという。
そのうち、バスの車内は混んできた。年配のひとが多い。市内へ出かけるらしい。一昨日のバスで見かけたおじさんが乗ってきた。向こうもぼくに気がついたみたいだった。
空港で、ぼくはバスを降りた。帰りのフライトは予定どおりに飛びたった。
左舷の窓際のぼくの座席から、石垣島北東部の海岸線が見えた。トムル岳と明石の集落、砂浜、そして昨日えんえんと歩いた東海岸も見えたが、平久保崎のあたりは、あいにく雲に隠されてしまい、視認できなかった。
この項、おしまい。