本州最東端・魹ヶ崎へゆく 3

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来た道を戻る

魹ヶ崎をあとにして、来た道を駐車場へ戻る。アップダウンはほとんどない。平地と同じペースでずんずん歩ける。帰路は写真もあまり撮らないことだし。

道に沿って電線が張られている。灯台へつながっているのだろう。電柱もあるが、どういうわけか、地面を張っていたり、黒くて四角い箱が木にくくりつけられていたりする。

帰りは早く、最東端の碑があるところを1254に出て、1345には駐車場に到着した。

途中数組とすれ違った。しまいには、背後からトライアルバイクが登場しておどろいた。

工事用のヘルメットをかぶっていたが、あれは灯台保守の人なのか、たんなる困ったおじさんなのか。登山口には、バイクや自転車での侵入不可と警告されていた。

津波到達点を示す石碑

ディフェンダーで浜から姉吉の集落へむかって登ってゆく。

途中、石碑があった。まず3.11のときの津波到達点を示す石碑があり、その少し上に、有名な明治の三陸大津波のときの津波到達点の石碑があった。下の写真にうつっているのは、後者のほう。

ここまで津波が来た、ここより下に家を建てるな、と刻まれていた。

実際そのとおりだった。姉吉では、いちばん下の住宅でも、この石碑よりも上にある。写真で中央の奧に見えているのが、姉吉でいちばん浜寄りの住宅である。

かつて村壊滅を何度も経験した先人の知恵を堅く守り、それに救われたという事実を、これ以上ない端的な形であらわしている。

宮古湾からR45で北上

県道41に復帰した。ここから北へ向かうルートは、南からやってくる側に比べて、状況はだいぶマシ。ただ、宮古側に出る山越えの道は少し狭い。

宮古湾沿いの道を西へ。波打ち際すれすれを走る。路肩はところどころ損壊していた。地盤が沈降したのではなかろうか。

巨大な防潮堤を過ぎると、そこにあったはずの街並みがなく、荒れ野が広がっていた。宙吊りにされたような感覚になる。

天気はよく、海は蒼かった。山も緑だ。だが浜へ降りると、荒れ野が目立つ。ここも以前は人の生活でむせかえっていただろうに。

そうしてR45号に復帰した。

三陸は、去年も一昨年も走っていたが、いずれも陸前高田以南だった。北半分を震災以後に直接見るのは初めてだった。たしかに復興の現場では、頭の下がるような努力がなされている。だが、そこでの生活が再建可能なレベルまでに進展しているかとなると、なかなか容易ではないようにおもわれた。下の写真は陸中野田付近である。

この日は、そのまま三陸を海沿いに北上し、五戸あたりで日が暮れた。

七戸まで走った。夜半に空を見上げると、朧月夜だった。

おしまい