杉原千畝記念館(前編)——晩秋のリトアニア駆け足旅 12

カウナス駅から雨のなかを歩いて杉原千畝記念館までやってきた。杉原がいた当時は在カウナス日本領事館だった建物である。

カウナス駅から杉原千畝記念館まで歩く——晩秋のリトアニア駆け足旅 11
晩秋のリトアニア駆け足旅のその11。カウナス駅に到着した。コインロッカーに荷物を預け、歩いて杉原千畝記念館へ向かうことにした。駅からおよそ15分ほどの道のりである。
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記念館は建物の地下

最初ぼくは道路からすぐの玄関から入ろうとした。どう見てもそれが自然だったからだった。それに、そこにはこんな門柱も建っていた。

すると、すぐに扉が開いて、なかから女性が出てきた。そして、記念館はここではなく地下なのだと教えてくれた。あそこから入ってくださいと、彼女が指さした。

そちらを見やると、こんな看板がかかっているのに気がついた。駅から来ると手前側、道路から見て建物の左脇の塀である。

矢印にしたがって少し下った右脇に木製のドアがあった。そこが記念館の入口だった。

参考までに、杉原千畝記念館のウェブサイトのリンクを下に貼っておく。日本語ページあり。

Sugihara House
Sugihara House

入ってすぐ正面に、こんな展示があった。杉原が、ナチスから逃れてきたユダヤ系の難民のひとたちに発行した日本の通過ビザがあしらわれている。

向かって左側の小部屋に受け付け兼売店がある。女性がひとりで店番していた。入館料は4ユーロだった。

訪問したとき、見学者はほかに誰もいなかった。雨のせいかもしれない。受付の女性が、荷物や上着や傘はここに置いて見学してもいいよといってくれた。お言葉に甘えて、そうさせてもらうことにした。

まず映像作品を観る

記念館は、地下にある三つの部屋が展示室になっていた。受付係の女性が、映像があるけど見る? と訊くので、お願いした。杉原の生涯を簡単にまとめた15分ほどのDVDで、出身地である岐阜県八百津町が製作した作品だった。

作品中には、家族のようすを撮影したホームムービーがかなり挿入されていた。あの時代にすでにかなりの量のホームムービーをふだんから撮っていたとおもわれることと、そのフィルムが残されており、十分によい状態であったことの三点に、少々おどろかされた。

再現された執務室

つぎに執務室を見学した。展示室として再現されたものだ。実際の執務室がこの位置にあったのかどうかはわからない。ただ、たとえばデスクの背後に掲げられた日の丸の旗など、調度品のいくつかは、当時もつかわれていた実物だという。

デスクの上には、ビザを発給したユダヤ難民たちの名簿や、ビザのレプリカ、ペン、タイプライターなどの執務道具がおかれていた。

椅子に腰かけて、デスク越しに執務目線で室内を見ることもできる。

外交公電の展示を読む

記念館内の展示品はそれほど多くはない。むしろパネル展示が中心である。そのなかで、杉原と東京の外務省とがやりとりをした外交公電がいくつか展示されていた。ここでは2点とりあげて、読んでみよう。

1940年8月1日に、杉原から松岡洋右外務大臣宛に発信された公電だ。内容は、いわば事後報告である。

カウナスにはアメリカ方面への出国をめざして大量の避難民が集まっていたが、すでに中南米の外交公館はなく、日本領事館の引揚げも切迫している。その状況において避難民にとっては唯一通過ビザを発給することができる国は日本だけであることから「事情斟酌ニ値スルモノアルニ鑑ミ」、いくつかの条件を付したうえでビザの発給をおこなっている、という意味のことが記されている。

報告の形をとりつつ、事後承認を求めていると理解してよいのではないかとおもう。

こちらは、同年8月16日発の、松岡外務大臣から在カウナスの杉原総領事代理にたいする公電。内容は、こうだ。

杉原の発給した通過ビザをもった避難民が日本に到着したが対応に困っている。今後は行き先酷の入国手続きが完了し、かつ旅費や日本滞在費などをかまないうる相当のおかねを携帯していないのであれば、「通過査証ヲ輿ヘサル様御取計ラレタシ」として、通過ビザ発給を制限することを求めている。ようするに、事実上ビザ発給をやめろといっているのだ。

その13へつづく

リトアニア 2018/10
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長谷川 一 明治学院大学 文学部 教授。博士(学際情報学)。専門はメディア論、メディア思想、文化社会学。散歩旅を愛好。メインブログ「散歩の思考」。

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