カウナスにある杉原千畝記念館の展示の話のつづき。前編はこちら。
日本経由キュラソー行き
この写真に写っているのは、当時ストックホルムにいたオランダ領事A.M.デ・ヨングが発給したオランダ領キュラソー行きのビザだ。これも展示されていたもの。
杉原が日本の通過ビザを発給した「根拠」のひとつは、避難民たちがオランド領キュラソーを目的地としたビザをもっていたからだった。といっても、オランダは1940年5月の段階ですでにナチスドイツに占領されていたため、実効性はほとんどなかった。このビザは、実質的には、避難民たちをヨーロッパから脱出させるために必要な外交上の形式を整えるものだった。いいかえるなら、当時リトアニアやスウェーデンなどにいた外交官たちは連携して、避難民の脱出を手助けしようとしており、杉原もそのひとりだったと見るのが妥当かとおもわれる。
このパネルは、杉原ビザによって日本へ到着した避難民たちが、その後最終的にどこへ逃れていったかを示している。
こんなふうに、実際に杉原ビザによってヨーロッパを脱出した避難民たちの経験が語られるパネルも数枚展示されていた。
その他のパネル展示など
杉原の生涯をまとめたパネル展示もあった。
こちらは、日本から記念館の見学にやってきたひとたちの居住地域を示したもの。ぼくはよく知らないが、日本からバルト三国を訪れるツアーでは定番の訪問先のひとつになっているのかもしれない。
先にも書いたように、杉原千畝記念館は地階の3部屋があてられていた。奥に階段があり、1階にも展示があるという。行ってみた。
1階にもかなりの枚数のパネル展示があった。展示は「北のカサブランカ」と題されていた。1930年代後半から第二次世界大戦初期にかけて、カウナスを中心とする当時のリトアニアをめぐる政治状況をまとめた展示だった。ナチスドイツとソビエト連邦という二つの軍事大国に挟まれて、リトアニアは地政学的にきわめてむずかしい状況にあったことがわかる。杉原千畝のストーリーを、より幅広い国際政治の文脈で捉えなおすにはよい展示である。
なお、地階の展示解説がリトアニア語、英語、日本語の三カ国語だったのにたいして、1階の展示には日本語解説は付されていなかった。
来館者ノート
ふたたび地階へ降りる。執務室の展示室の一角に来館者ノートがおかれていた。
ぱらぱらとながめる。圧倒的に日本語による記帳が多い。来館者の大半が日本人なのかもしれない。
杉原千畝のストーリーは、いまや教科書にも載っているのだといい、少なくとも日本のなかではいろいろ語られているのだろうとおもう。ぼくがよく目にする表現のなかで気になるのは、「日本人として誇らしい」というものだ。そう素直におもってもいいのだが、こういうストーリーをナショナリズムだけに回収してしまおうとするのは、必ずしもバランスのとれた姿勢だとはおもわない。
たしかに、杉原は「愛国者」だっただろう。上映DVDのなかで、ビザを発給するとき避難民にたいして「天皇陛下万歳」とわざわざ言わせた、という話が紹介されていた。
ただその「愛国」は、視野の狭い排他的ナショナリズムとは異なるだろう。そうでなければ、当時の母国政府の方針にあからさまに反することを承知のうえで、自身の権限ぎりぎりのところで、ナチスに追われたユダヤ系避難民たちに通過ビザを発給するようなことはできない。
杉原をはじめ、当時カウナス周辺にいて避難民の脱出行を手助けしようとした外交官たちのなかには、母国政府がそもそも消滅していたりしている者もいた。それでもかれらは、自身が行使できる最大限の努力をおしまなかった。それは「何人として」というより、むしろ「人間として」なされた決断であり行為であると考えられるべきではないだろうか。
そうおもうがゆえに、この杉原千畝記念館は、日本のひとはもちろん、ほかのさまざまな国や地域から、ひとりでも多くの来館者が訪れてくれるとよいと願っている。
丘の上の十字架
見学を終えて受付の女性と話をした。1940年には崩壊したカウナスのユダヤ人コミュニティは、いまは恢復して多くのユダヤ人がカウナスに住んでいるという。そして、この記念館の館長もそのひとりなのだそうだ。
記念館をあとにして、来た道を駅まで戻る。さいわい雨はやんでいた。
雑木林の丘まで来ると、丘の端に十字架が立っているのに気がついた。
丘の端にたつその十字架は、ちょうどカウナスの駅と、その向こうに平たくひろがる街や野を、静かに見下ろしていた。