ベンヤミンのポルボウを歩く 3——遺骸のない墓所

ベンヤミン最期の地ポルボウの街を歩く話のつづき。

墓所正面の門は開け放たれていた。

この墓所は、ちょっと奇妙な形式をもっていた。団地化しているのである。白い外壁でぐるりと四周を囲われている。なかは、ひな壇式になっており、団地のように、棟が幾棟もならんでいる。各棟は縦横に整然と区画されており、その区画ひとつひとつが、それぞれ墓なのだ。

入って左に降りて一段、右に登って四段あるから、つごう六段。二段登った右手に、ベンヤミンの墓(記念碑)があった。

自然石に、黒い石板が嵌め込まれていた。そこにベンヤミンの氏名、生年生地、没年没地(むろん “PORTBOU” と刻まれている)、さらに『歴史の概念について』から「それは文化のドキュメントであると同時に、野蛮のドキュメントでもある」(野村修訳)という箇所が引用され、ドイツ語とカタルーニャ語で刻まれていた。ポルボウの記念碑たちはずいぶんこの論文が好きらしい。

小石がケルンのように積まれていた。ぼくもあたりから小さな変な格好の小石をひとつ見つけ、それをけれども上に積むのではなく、墓石の下の隙間に差し込んだ。なんとなく、それが、ベンヤミンとぼくとの関係においてはふさわしいような気がしたからだ。

そのあと、日本式に手をあわせて祈った。祈りの言葉は、ちいさく声に出した。たいしたことではないが、どんなことを話したのかは、ぼくとベンヤミンのあいだだけにとどめておきたい。だから、ここにも記さない。

とはいえ、この墓が本来の意味での墓ではないことを、ぼくは知っていた。つまり、この下に遺骸なり遺骨なりが収まっているわけではないのだ。

ベンヤミンの遺骸は563番の墓に収められたが、1947年ごろにはそれは別のひとの墓になっていた。死後一定の年数が経つと墓が別人に譲られるというのは、このあたりではしばしば見られる習慣なのだそうだ。そんなわけで、その代替えの際にベンヤミンの遺骸は処分されてしまった可能性が高く(それにしても、どこへどうやって?)、所在は不明のまま。

ならばということで、その563番を探す。あとでパンフレットに記載があったことに気づいたのだが、そのときはすっかり失念していた。

いちばん下の棟のいちばん左端、つまり入口のすぐ左脇のところに、562番を見つけた。だが、そこは墓所のいちばん端のため、次が見当たらない。もしかして、番号を付け替えて、563番が抹消されてしまったのかもしれない、とさえ考えた。なにせ「562」という番号は手書きだった。

仕方がないので、あらためて下から順にすべての墓を見なおしていった。

墓地の番号は基本的に埋め込まれているのだが、必ずしも順番に番号が振られているわけではなかった。なぜか番号のないところや、先述したとおり手書きのものもあった。

空いたままになっている区画も少なくない。それを見ると、レンガ造りで、奥に細長い形をしており、棺をそのまま縦に挿入して蓋をする仕組みになっていることがわかる。

つまり、この墓所には、実際に何百という死者たちが、遺骸とともに、土と触れることなく宙づりにされ、縦横に堆積しているわけだ。たしかに、異臭というか、独特の匂いが漂っていた。

そうして見ていくうちに、いちばん奥のいちばん高い段にある、外壁に背を向けた棟のほぼ中央あたりの最下段に563番を発見した。それは、縦に四階だてになっているうちの、下2段分を合併した区画で、先述した事情のとおり、いまは別人の墓になっている。

ベンヤミンの墓が代替わりした経緯は、長田弘の『アウシュヴィッツへの旅』(中公新書)を読んで知っている。長田が訪問したのは1970年代前半のことだ。ベンヤミンの遺骸の後釜として、563番に納められたとされる人物の名は、しかし墓の正面ではなく、左手の壁に記されていた。その後の40年間のうちに、さらに代替わりしたらしい。

近くで墓の修理をしていたおじさんが「ベンジャミン?」と声をかけてくれた。なにかいろいろ話をしてくれたが、残念ながら、まったく理解できなかった。「オウトファミリー」という単語が聞きとれたくらいである。いまは別人が入っているけどな、とでも言ったのであろうか。

このおじさんは、それから仕事を終え、デイパックを背負って、ヤマハのバイクで帰って行った。

ぼくも墓地をあとにして、街へ戻った。

その4へつづく

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